第3話

 阿久津真矢(天海祐希)は何のために、生徒を冷徹に管理し、いじめているのだろうか。そこに、教育者としての信念はないように思う。
 今回の物語は、開校記念日に向けたダンスの練習が中心であったが、そのダンスを、生徒の進藤ひかる(福田麻由子)が「どっかの国みたいな、あんなくだらないダンス」と非難していた。真矢が作ろうとしているクラスは、そのどっかの国のように、独裁体制の社会主義的なものなのではないだろうか。彼女が育成しようとしているのは、教師に忠実な生徒であり、それはまさに、社会主義国家における、理想的な人民なのではないか。
 そう考えると、このドラマは、社会主義社会において虐げられている人民たちの反抗の物語を、一つのクラスに置き換えているのではないだろうか。つまり、これは学園ドラマではなく、下級民が権利を勝ち取るまでの闘争を描いた社会派ドラマなのだ。だから、その最上階に位置する真矢に教育者としての信念などは必要ない。社会主義社会のトップというのは、人民のことよりも、自分自身のことを第一に考えるのである。
 ところで、このドラマを巡っては、様々な反応があるようだ。確かに、新鮮で衝撃的な内容だから、いろいろな意見があって当然だろう。

 天海祐希(37)が小学校の鬼教師を演じる日本テレビドラマ「女王の教室」(土曜後9・00)の内容をめぐり、視聴者間で論争がぼっ発している。ドラマの公式ホームページ上の掲示板で賛否両論が渦巻き、第2話までしか放送されていない現段階で書き込み数が1万2000件を超えた。「打ち切り希望」の声がある一方で、「こんな先生が必要」との賛成派もおり、意見は真っ二つに割れている。

(中略)

 天海が演じるのは、公立小学校の6年3組の担任として赴任した女性教師・阿久津真矢。徹底した成績重視主義で子供たちを管理する。「あなたたちは有名私立小の生徒よりずっと遅れている」「授業以外で私に話しかけていいのは成績上位の2人だけ」。スタッフが付けた「悪魔のような鬼教師」のキャッチフレーズどおり、その言動には批判の声が集まり、書き込みが2日の番組スタート直後から殺到した。

 大きな社会を小さなクラスの中に再現したという点で、とても新鮮ではあるが、批判的な反応が起こるのも理解できる。しかし、教師という立場を利用して、生徒を操る人間を描くことが間違っているだろうか。現実に、そういう教師が存在するではないか。生徒にわいせつ行為を働いたり、行き過ぎた体罰を与えたりする教師の存在は、頻繁に報道されている。
 もし、このドラマでそういう教師を礼賛するような表現がなされているとすれば、それは批判すべきである。しかし、作中で真矢が良い教師であるように描かれることは皆無だ。彼女が登場するシーンは、常に青白く暗い照明を使っている。他のシーンは赤系統の暖色照明であることを考えれば、制作者側の意識がうかがえるだろう。また、生徒たちも他の教師も彼女を良い教師とは思っていない。保護者たちは彼女に騙されている過ぎない。このドラマの中で、心から真矢を尊敬したり、認めていたりする人間は存在しないのである。
 だから、単純にこのドラマを否定することはできない。主役が悪であるという構図のために、浅薄な批判が起きているのだろうが、そのような批判をする人間は、作中で描かれている保護者と同様で、物事の表徴しか見ることができないのではないかと思う。このドラマは、理不尽な鬼教師(すなわち、社会のトップ)への批判を秘めているとともに、そういう人間にたやすく騙されてしまう保護者たちへの批判をも抱いているのではないだろうか。
 というのは、私の見方なので、制作者の意図は違うのかもしれない。もし、真矢が高尚な信念を持った素晴らしい教員で、最終的には生徒たちもそのことに気付き、彼女に感謝をする、などというような展開になったとしたら、私はこのドラマを批判するだろう。ここまでの真矢の言動は、いかなる理由があろうとも認められるものではないからだ。だから、彼女は最後まで悪でなくてはいけない。