第4話

 前回の感想(2005/07/19「女王の教室 第3話」)の中で、このドラマは社会主義社会をクラスにおきかえて、そこに住む人間が抵抗する過程を描いたものなのではないか、と書いた。現時点でも、まだそのような見方は成立するが、さすがにそこまでの飛躍はなさそうだ。ただ、真矢(天海祐希)が完全悪であるという見方には変わりない。
 真矢の言っていることは、批判する余地がないぐらいの正論である。しかし、その正論が常に正しいとは限らない。正論というのは、状況によって変化する。だが、真矢の主張は臨機応変に形を変えるものではなく、絶対的なものであり、不変だ。だから、その主張は、たしかに正しいのだが、はたして、教育現場においても正しいと言えるだろうか。今のこのクラスの中でも正しいだろうか。私は、そう思わない。彼女が行っているのは、教育ではなく、統制であり、矯正である。
 それが如実に現れているのが、進藤(福田麻由子)への仕打ちである。彼女は成績優秀であるにもかかわらず、真矢に逆らったという理由だけで、虐げられている。良識ある教育者であれば、優秀で友人想いの彼女を潰すようなことはしないはずだ。
 これに関する真矢の主張は、「目上の者にはちゃんと従うこと」というものである。しかし、これは詭弁に過ぎない。彼女が本当にそう信じているのなら、彼女自身、なぜ学校で最も偉い校長(泉谷しげる)や教頭(半海一晃)、あるいは学年主任(内藤剛志)に従わないのか。取るに足らない存在なのかもしれないが、少なくとも学校組織の中では目上の者である。彼らに従わないのは不自然だ。
 また、今回の物語の中では、真矢による強硬的な犯人探しの結果、無実である神田(志田未来)が犯人扱いされることになってしまった。この状況から、真矢の理念の欠陥が浮かび上がってくる。先述したように、彼女は一般的な正論を主張しているに過ぎず、その正論を微塵も疑っていない。その正論を行使したことによってもたらされた状況を的確にとらえ、判断することができれば、自分の言動の誤りに気付くだろう。しかし、彼女はまるで狂信者のように、一つの思想を信じて疑わない。そのために、正論とは思えない正論が生まれてしまっているのだ。
 結果的に犯人となった神田は、他の生徒たちのいじめの的になってしまう。これに対する真矢の対応によって、彼女の真意がうかがえるかもしれない。もし、自分に逆らった生徒であり、罪を犯した人間(実際には違うが)であろうとも、いじめをやめさせるならば、教育者としての自覚があるのだろう。逆に、いじめを止めなかったとしたら、彼女は教育者とは言えない。その場合、ひょっとすると、自分に向けられた反発心を解消するために、神田といういじめ相手の存在を容認してしまうかもしれない。そうなれば、彼女の意識が教育に向いていないことが明らかになるだろう。
 ところで、彼女は、なぜ、教育者になろうと思ったのだろうか。彼女が教育者であるならば、自身の信念に基づいた教育を行っているのだろうから、現在の教育に疑問を感じて、教育者になることを目指したのかもしれない。
 だが、彼女が教育を目的とせずに、教育者になったのだとしたら、それはどういう理由からだろう。一つの可能性にすぎないが、彼女は一般社会からはじき出された落伍者なのではないか。つまり、彼女は性格の欠陥ゆえに、社会生活に躓き、自身の主張を最も強く推し進められる場所として、学校を選んだのではないか。一般社会では権力者になれなかった彼女は、自分が絶対的な権力を持った「女王」として君臨するために、教員となったのではないか。最も生徒を操りやすい、小学校の。
 彼女は信念を持った教育者ではあるものの、その信念が教育にはふさわしくない、つまり、誤った信念をもとに教育を推し進めている教師であるという、真矢に対する好意的な見方もあるだろう。確かに、「誰にでも間違いはある。それは教師でも同じだ。クラスの中で絶対的権力を持った存在である教師が間違っていたら、こんな怖い状況になってしまうこともある。」というドラマであってもおかしくはない。
 だが、時折垣間見える、生徒に向けた、相手を卑下したような笑みから考えると、彼女はただのサディストなのではないかと思ってしまう。少なくとも、信念を持って教育をしている人間の表情とは思えないのだが、果たしてどうなのだろうか。
 真相が明らかになるまではまだまだあるが、真矢に教育者としての理念や自覚など、これっぽちもないというのが、現時点での私の見方であり、予想である。